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温州日语出国培训今天来告诉你日本史上最强悍的悍妇是谁!接下来跟我们阿辛达的老师来用日语了解下日本史上最强悍妇!
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歴史上NO.1の「鬼嫁」は誰か?
历史上排名第一的“悍妇”是谁?
日本の歴史上“最恐”の鬼嫁を1人挙げるとしたら、満場一致で北条政子でしょうね。
若要举出日本历史中“最可怕”的一名悍妇,大概全场会一致同意是北条政子吧。
“平家にあらずんば人にあらず”の時代、伊豆に流されていた頼朝は、北条時政の長女、政子といい仲になります。ただ、時政は平家をおそれて娘を地元有力者に嫁がせた。親の決めた結婚ですから、普通は従います。しかし、政子は自分の意思で嫁ぎ先から頼朝のもとに逃げ帰ってきた。地元有力者の恨みを買って追い詰められた頼朝は、以仁王の乱をきっかけに挙兵せざるをえませんでした。頼朝は頭はいいけれど、度胸がないタイプ。奥さんに尻を叩かれていなければ、伊豆の流刑地で一生を終えていたでしょうね。
在“平氏之外皆非人”的时代,被流放至伊豆的源赖朝与北条时政的长女政子交好。然而,时政因畏惧平家而将女儿许配给了当地有势者。一般人都会遵循父辈定下的婚约,而政子却以自己的意志逃离夫家回到源赖朝身边。源赖朝由此被当地有势者记恨追逼,不得以借仁王之乱这一契机举兵。源赖朝之人虽聪慧却无胆量,若非夫人鞭策,恐怕会在流放地伊豆度过一生吧。
政子は性格も苛烈でした。頼朝は浮気性で、政子の妊娠中に妾をつくりました。政子は怒り、妾の家を焼いてしまいます。昔から男絡みで女同士が争うケースはありましたが、せいぜい物を投げあって終わる程度。しかし、政子は本気で襲わせた。これでは頼朝も尻に敷かれますね。
北条政子性烈。源赖朝用情不专,在政子怀孕期间纳妾,政子盛怒之下烧了妾侍的家。过去也曾发生过女性为男人争吵的事,但也不过是互相砸东西的程度罢了,北条政子的确是动了真格。自此,源赖朝被政子管得死死的。
頼朝は北条家の力を借りて頭角を現し、ついには鎌倉幕府を開きます。おそらく頼朝は、「自分は鬼嫁をうまく利用してきた」と思っていたのでしょう。しかし、実際に掌で転がされていたのは頼朝のほうです。
源赖朝借助北条家的力量崭露头角,最终建立了镰仓幕府。或许源赖朝自认为“自己巧妙地利用了悍妇”吧,然而,实际被玩弄于股掌之上的却是源赖朝。じつは鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』は真ん中の部分が欠けており、頼朝が死んだ原因が直接記載されていません。回想シーンで「馬から落ちてほどなく亡くなった」と書いてあるだけ。本当の死因については諸説ありますが、最有力は政子に殺された説。政子はその後、北条家のために実子をも手にかけたともいわれています。そのことを考えたら頼朝を殺すくらい何でもなかったでしょう。
实际,镰仓时代的历史书《吾妻镜》中间缺了一部分,未直接记录源赖朝的死因。只在回忆部分提了一句“(源赖朝)落马后很快就去世了”。就其真正死因有诸多说法,但其中最有力的是政子杀夫之说。相传在此之后,政子为了北条家甚至杀害了自己的亲生儿子。这么一想的话,弄死源赖朝大概也不算什么事儿了。
鬼嫁を操縦しきれず自滅した頼朝と比べると、うまくやったのが豊臣秀吉です。妻の北政所に鬼嫁のイメージはないかもしれません。しかし、北政所は豊臣政権の共同創業者。加藤清正や福島正則など秀吉の子飼いは実質的に、北政所の息がかかっていた。朝鮮出兵から帰国したときも、まっ先に挨拶に行ったくらいです。
与欲操纵悍妇不成而自取灭亡的源赖朝相比,丰臣秀吉可算做得不错。其妻北政所或许未给后人留下悍妇的印象,但她确实是丰臣政权的共同创建者。加藤清正、福岛正则等秀吉的养子实质上都与北政所息息相关。
几人出兵朝鲜归国之后,首先拜访的就是北政所。
恐妻家で偉くなった、男たちの共通点
成就伟业的“妻管严”男性的共同点
秀吉は北政所の影響力を認めていたので、生前よくご機嫌取りをしていました。神経痛だと聞けば、あそこの温泉がいいと手紙も書いた。秀吉の死後、北政所は家康について、加藤清正らも従いました。それが関ヶ原の勝敗を分けたのです。
秀吉承认北政所的影响力,在生前尽力讨其欢心。听说北政所患有神经痛,马上送信写明何处温泉有疗养效果。秀吉死后,北政所归于德川家康一方,加藤清正等人也跟随其后,由此奠定关原之战的战局。
鬼嫁の扱いについて、頼朝や秀吉を上回る巧みさを見せた男もいます。お江(崇源院)を妻にもらった、徳川2代将軍の秀忠です。世間では、秀忠は2代目の暗愚な将軍で、お江は将軍を尻に敷く高慢チキな
女性という印象があるかもしれません。たしかにお江は織田信長の姪、豊臣秀頼のおばという血筋。秀忠より6歳年上で、お江自身は3度目の結婚となれば、カカア天下なところもあったのでしょう。ただ、お江の鬼嫁ぶりは、秀忠にノセられてやっていた面があった。根っからの鬼嫁というより、秀忠の掌の上で鬼嫁を演じさせられていたのです。
在应对悍妇这一方面,也有比源赖朝和丰臣秀吉做得更加巧妙的男人,那就是迎娶江夫人(崇源院)为正室的德川幕府第二代将军,德川秀忠。世人或对这对夫妻有如下印象:二代将军秀忠是个愚钝之人,江夫人则是把将军控制在手的高傲女性。确实,江夫人是织田信长的侄女,也是丰臣秀赖的姨母。江夫人比秀忠年长6岁,这也是她第三段婚姻,或有几分女子当家的意思吧。不过,江夫人“悍妇”这一面也有秀忠怂恿的成分,与其说江夫人本质是悍妇,不如说是在秀忠的控制下扮演悍妇这一角色。
秀忠は聡明だった、というのが私の評価です。徳川幕府が長期政権になったのは「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」といった法律が機能していたから。つくったのは秀忠です。これはお飾りのボンクラ将軍では無理。また、秀忠は福島正則など、豊臣ゆかりの大名を次々に改易させました。これも家康の時代にはできなかったことです。
笔者个人认为,秀忠是个聪明的人。德川幕府之所以能长期掌握政权,就是因为《武家诸法度》、《禁中並公家诸法度》等法律的效力,而其创建者就是秀忠。这可不是门面装饰的愚钝将军能办到的。此外,秀
忠还依次撤封了福岛正则等与丰臣家密切相关的大名,这也是家康时代没能做到的。
さらにすごいのは、これらの政策を家康の名前でやったという点です。自分が前面に出て強権をふるえば、何かと軋轢が起こる。そこで自分は陰に徹して徳川幕府の礎をつくり、3代目の家光に引き継がせた。お江が鬼嫁だというイメージも、おそらく秀忠が凡庸さを装うための演出。恐妻家を演じることで、自分を目立たない存在にしたわけです。
更巧妙的是,这些政策均是以德川家康的名义颁发的。若秀忠自己出头施展强权,会导致纠纷产生,于是秀忠始终潜藏在阴影处,打下德川幕府的基石并传给三代将军德川家光。江夫人“悍妇”这一印象,估计也是秀忠为了假扮平庸之为,通过扮演“妻管严”,使得自己不那么显眼。
秀忠はお江を恐れて側室を持たなかった、といわれています。しかし、普通に浮気はしていた。のちに会津松平家初代の保科正之は、秀忠が女中に手をつけてできた子どもです。
据说,秀忠因畏惧江夫人而未曾纳过侧室。不过轻浮之举倒是不少。会津松平家初代保科正之就是秀忠和女官所生。
頼朝や秀吉のようにリスクを取りつつ鬼嫁の力を利用するか、秀忠のように鬼嫁を自分の隠れ蓑に使うか。アプローチは違いますが、歴史をつくる男たちに鬼嫁は欠かせない存在なのです。
是如源赖朝及秀吉那样,冒着风险利用悍妇的能力,还是像秀忠那样借悍妇掩人耳目呢。虽说方式不同,但创造历史的男人身边总不会缺少悍妇的身影。